現れの空間

「現れ(あらわれ)の空間」という言葉がある。

「現れの空間」とは、隠れていたものが見えるようになることで、公共の中で自分の意見を言い行動し、それが第三者に認知されるということだ。自分自身が誰であるかを示し(本来の自分)、身をさらす勇気がなかったら、公共を「現れ(あらわれ)の空間」とするのは不可能であると言われる。

ナテスドイツによる迫害を被ったイスラエル人哲学者のハンナアーレント(Hannah Arendt)氏は、公共が成立する条件として、次の3つを指摘する[1]。

  1. 様々な意見を許容する
  2. 適度な距離がある
  3. 属性を捨てる

様々な意見を許容するということは、ダイバーシティの問題であり、インクルーシブデザインの課題であろう。様々な意見を判断するには「公共の価値観」が必要であるが、公共にはとかく「村社会の不文律」という不合理性を含みがちである。この不合理性を少なくすることが大事である。

適度な距離とは、親密になりすぎないことを意味する。親密になりすぎると、情が入り言いたいことが言えなくなるからである。昔は「飲みニュケーション」などと言い、プライベートな時間に仕事の相談をしたり愚痴をこぼしたりしたものだが、今では死語と言ってもいい。

属性を捨てなければいけないのは、例えば肩書きを意識し過ぎると、気を使ってしまい意見が言いにくくなるからでえる。業界団体の委員会活動や学会などは、どちらかというと肩書を踏まえた関係となり、公共とは言い難い。どうしても閉鎖的であり排他性がある。

では、公共という形で"公に利する活動"にはどのようなものがあるかと言うと、一般的には次の2つである[2]。

  1. 税金を基に国家・自治体が行う行政サービスのようなもの
  2. NPOやボランティア活動のような利他的なものである。

SCD(Social Centered Design)は、このどちらでもない。行政サービスでも無いし、ボランティア活動でも無い。第三の"公に利する活動"である。東日本大震災を機にSCDが増えており、様々な企業・団体・個人が社会課題に取り組んでいる。

SCD活動の中で活動の主体が「何のためにその活動をするのか」、つまりビジョンを明確にすれば、それは現れの空間を作れたことであり、公に利する活動の足掛かりを得たことになる。これが社会から支持されるということなのだろう。


By Ian T. McFarland from Los Angeles, USA - Lightway, CC BY-SA 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=39810645

参考情報
[1]「公共性の現在 : ハンナ・アーレントの公共性論の今日的 意義」> https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/59262/1/06imadearendt.pdf
[2] 公共-Wikipedia> https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%85%B1